ひきこもりニートは世間から「甘え」や「怠け」だと言われることが多いと思っています。
私の経験談としては、親から「甘えてるだけじゃん。そんなんでどうするの」という、ヒキニートに対して全く無意味な言葉を何度も言われました。
私はひきこもりニートが「甘え」であり「怠け」であることには同意なのですが、そんなことはどうでもよくて、問題ではないと思っています。
問題なのは、ひきこもりニートの人たちが「甘え」や「甘え方」を知らないことだと考えています。
(そのことを教えられない周りの人間もどうなんだろうとは思っています……)
私の考えを載せておきます。
目次
ひきこもりニートの甘えを考える本記事の対象読者
この記事で想定している読者は、ひきこもりニートをやっていて周りの人から「甘え」やら「怠け」やら言われて、罪悪感や苛立ちや無力感や不安感を感じている人です。
本当に病気が原因でひきこもっている人は対象外です。
「ひきこもり」という言葉の意味をよく知らない人は、「ひきこもりの定義とは何か」を読んでください。「ひきこもり」の意味を混同しないように分類して整理しています。
この記事で言いたいことは、
人から「甘え」だと言われて、甘えの自覚があるひきこもりニートであるならば、せめて本当にしっかり「甘えられている」のかを見直した方がいいのではないかな
ということです。
方法論よりも精神論について書いてます。
ラクをすることは別に絶対的な悪ではないです。
生きていて、何かしらに甘えて生きていない人なんて、まずいないです。
ただの程度問題です。
甘え合うことを、キレイな言葉で言い直せば、助け合いと言っているだけです。
甘えずに生きていくだけの強さを持たない人間ならば、無理をするよりも、甘えて生きていくことを考えた方が精神的なストレスがなく、効率もよいと思っています。
もともと、「甘え」とは弱者が使うための生存戦略の一つです。
ひきこもりニートの人は、もっと甘えていいと思います。
むしろ、「甘え」こそ生き様であり、信念だと言い張れるくらいでもいいと思います。
こういう感じの適当な考えで生きている(元)ひきこもりニートが書いている記事になります。
「甘え」について考えてみましょう。
もし、ひきこもりニートを「甘え」だと言い切るような、ひきこもりニートの関係者(親や家族)がこの記事を読む場合は、きっと不快なことを書いていますことをお詫びしておきます。
申し訳ないです。
私は「自信がないひきこもりニートに対して、自信を持ってとか前向きにとか励ます人の正気を疑ってしまう」のような考えを持った人間です。
ダメ人間がダメ人間に送るダメな意見だと聞き流してくだされば幸いです。
ひきこもりニートが「甘え」という意見の理由
まず、ひきこもりニートはなぜ甘えだと言われるのか、その主張について簡単に書いておきます。
世間やひきこもり関係者の人たちが、ひきこもりニートに対して「甘え」と言う理由は大まかに以下のものでしょう。
- イヤなことから逃げてラクして、働くこともせずに家の部屋でひきこもっているだけだから
- 世間で生きている人たちは、イヤなことがあっても向き合って働いて生きているのに、それを我慢していないひきこもりニートは甘えて怠けているだけ
まとめると、「(やるべきことを)我慢せずにラクをしているから甘え」と「働いていない=自分の生活費を稼いでいないから甘え」という主張です。
ひきこもりニートやっていた私からすると、反論できる余地のない意見だと思います。
私は肉体的に軽度な持病を持っていて、身体を動かすだけでしんどいこともあり、健常者を羨ましく思いながらひきこもっていました。
けれど、全くどうしようもないという状況ではありませんでした。
自分で動かずに、誰かのせいにして、環境のせいにして、何かのせいにして、責任をなすりつけて。
ひきこもるだけで、自分でやれることを全てやっていませんでした。その自覚がありました。
というよりも、「やるべきこと」だとか、「責任」だとかの前に、「こうやって生きたい」「自分で生きる」という意志を放棄していました。
無気力感と絶望感に諦めて、ただ動けないだけのそんな自分を心のどこかで自覚していました。
だから、私の経験からすると、本当に病気などが理由で、全くどうしようもないという人以外は反論できない主張だと思います。
まさにその通りの正論だなと思います。
(ただし、正論なだけで、これだけだと解決策につながらない、無意味な正論です)
ひきこもりニートは「甘え」じゃないという意見の理由
反対に、ひきこもりニートは甘えじゃないと言う主張についても簡単に書いておきます。
- ラクをしているように見えるが、ひきこっている本人は社会と関われずにひきこもっていることに苦しんでいる。どうすればいいのか自分でもわかっていないだけ「楽をしている」のではなく、「苦しんでいる」
- ひきこもりという経歴があると「働きたくても働き口がない」「やりがいのある職に就けない」という社会的な要因のせいだ。「働かない」のではなく「働けない」
- 精神病や肉体的な持病のせいでひきこもっている人もいる。「働かない」のではなく「働けない」(この記事の対象外です)
まとめると、「ひきこもる行為はラクではなく、苦しい行為だから甘えではない」と「働きたい意志はあるけど、働き口がないから甘えではない」という主張です。
この意見は、ひきこもりニートやっていた私からすると、一部同意なのですが、一部反対な意見となります。
ひきこもることに苦痛を感じている人からすれば、ひきこもる行為は自傷行為・(刑罰に使われる)拷問行為に他ならないので、ひきこもりは苦しい行為だということには同意します。
(ひきこもりニートがつらいと感じる原因について【囚人だから】)
けれど、苦しい行為に耐えているんだから甘えじゃないという部分は、おかしいと思います。
きっと「我慢せずにラクをしているから甘え」という意見に反論をしたいのだと思うですが……
好きでひきこもりニートをやっているわけでなく、苦しんでいるから甘えじゃないと反論する人は論点がズレているなと思います。
その苦しい行為は、そもそも本来やるべき行為なのでしょうか?
ひきこもりニートは、勝手に自分で不要な自傷行為をやって、自分勝手に苦しい行為に耐えているだけです。
それで、ひきこもりは甘えじゃないというのは、自分本位ですごく言いがかりな意見だなと私は思います。
この意見がまかり通るならば、自分でケガをして、騒ぎ立てて、治療費を他人に請求することが世の中で可能になるのではないでしょうか。
メチャクチャな意見だなと思います。
「苦しんでいるんだから、ひきこもりは甘えじゃないんだよ」
ひきこもりニートにとっては、とても都合がよくて、耳に優しい意見に聞こえます。
こういう意見を言う精神科医やカウンセラーもいるようです。
私は心の専門家ではないので、どういう人がどんな理由でこういう意見を言っているのか、わかりません。
本気でひきこもり支援して克服させるよりも、ひきこもり当事者や関係者にウケがよい言葉を言ったり、テキトーに治療っぽいことしているフリをして治さずに、「とにかくずっとお金をもらえればいいと考えている悪徳タイプかな?」もしくは、「知識はあっても実力はない残念タイプの治療者なのかな?」くらいに思ってしまいます。
私がひきこもりニートをやっていた頃の苦しみとは……
苦しんでいることに甘える。
苦しんでいることを免罪符に言い訳して、自分を許してもらう。
苦しんでいれば、報われてどこかの誰かに助けてもらえるという幻想を抱く。
そんな自分勝手な苦しみがありました。
その行為が裏切り行為であると、自責の念がありました。
ぐるぐると心を回り続ける苦しみでした。
そのことを自覚していながら、やめることができない自分の弱さでした。
「働き口がない」、「働かないのではなく働けない」という意見に関しては、ひきこもりニートの経歴のおかげで、私は就職に苦労した経験があるので同意する部分もあります。
けれど、今の時代はひきこもったまま個人でやれる在宅ワークもありますし、高齢化社会で働き手も減り、働き口も日本全国を探せばそれなりにあります。
やりがいを度外視すれば、なにかしら稼げるでしょうし、どこか雇ってくれる企業もあるんじゃないのかなと感じています。
自分で働ける可能性を考え尽くして、探し尽くして、行動し尽くして、それでも働けなかったという人だけが「働けないから甘えじゃない」という主張をできるのではないかと私は思います。
「甘え」という考え・言葉の意味から考えてみる
ここで、そもそも「甘え」という言葉について、少し考えてみたいです。
「甘え」とはよく日常でも使われる言葉ですが、その意味をはっきりと考えて使っている人は少ないと思います。
甘えの言葉の意味を調べると以下のようになっています。
人の好意をあてにする気持ち。
(出典:コトバンク)
「いい甘え」「悪い甘え」とは?2つの違いを知ることが大事の記事を読むと、甘えには2種類あると考えられます。
上記の記事を簡単にまとめると、以下になります。
- 良い甘え:情緒的な要求(つながり)、手助け
- 悪い甘え:物質的な要求(わがまま)、過干渉
私も上記の記事の内容にだいたい賛成です。
人の好意をあてにすること自体は、別に悪ではないと思っています。
人の好意をどう活かしていこうしているのかが大切だと思っています。
私はひきこもりニートは甘えだと思っていますが、それは「悪い甘え」の人がほとんどではないだろうかと勝手に思っています。
この記事ですすめたい「甘え」とは辞書的な意味ではなく、「良い甘え」のことを指して使用しています。
「甘え」とは「自分の人生を楽しく幸せにするために、つらいときや寂しいときには心に寄り添ってもらう、もしくは、自分ではできないことや苦手なことなら他人にやってもらうこと、優しくしてもらうこと」のような意味で使用しています。
自分を不幸にするための行為を「甘え」とは言っていません。
「自分を幸せにしてくれる」効果がなかったら、それは「甘え」として意味がないと思うからです。
ラクかどうかよりも、自分を幸せにしてくれくるかどうかの視点の方が大切だと思います。
勘違いしてもらいたくないのですが、甘えるってのは、人生の全て、生殺与奪、責任を他人に任せきっりにするということではないですし、すがりつくというわけでもないです。
あくまで主役は自分で、他人は手助けしてくれるだけの存在です。
甘えとは、支援を求めることで、自分(と相手)の人生を幸福にすることです。
ひきこもりニートが「甘え」を知らないと私が思うのは、
稼いでいないという金銭的な面での甘えは「悪い甘え(怠け)」でしかないと思うし、精神的な面での甘えも、結局のところ、苦痛を感じているならば「良い甘え」ができていないと思うからです。
甘えるなら、良い甘えをした方がオトクに決まっています。
甘えるなら、良い甘えをした方が人生に安らぎがあるに決まっています。
無意味な甘えをしているひきこもりニートは悲しいと思うし、自分を救う甘えをしていないことが問題だと思うのです。
ひきこもりニートは甘えられているのか?
ということで、改めてひきこもって苦しんでいるひきこもりニートの人に聞きたいのは、「自分の甘えは自分の人生を良くしてくるのかどうか?」です。
(金銭的な甘えは、現実的な問題が立ちふさがれば解消するしかなくなるので、ここでは精神的な甘えについてのみ話題にします)
あなたは、ちゃんと甘えられていますか?
ひきこもりニートは悪い甘え
ひきこもった原因もひきこもり続ける原因も人それぞれでしょう。
- 外の世界でつらいことがあったから
- 外の世界に出るのが怖いから。どうすればいいのかわからないから
- 自分の話を聞いてもらえらないから。無駄だから
- 自分を苦しめた親への復讐のためだから
ひきこもりになった原因がどんな原因であれ。
たとえ同情されるべき理由があるのだとしても。
過酷な状況だったのだとしても。
ひきこもりニートが甘えであると言われてしまえば、私には否定できません。
世界中を見渡せば、過酷な状況にもめげずに頑張って生きている人たちがいますから。
ひきこもるなんて余裕が一切ない家庭や環境で育って生きている人たちがいますから。
私は弱い人間だし、甘えた人間だし、ダメな人間だという自覚があります。
そんな不出来な自分に対して、生きることへの罪悪感を感じていました。
ひきこもりニートは甘えです。
そして、その甘えはひきこもりニートを救ってくれる甘えではないです。
ひきこもりニートは甘えではなく怯えているだけになる
私にはひきこもった要因があり、それは心の傷となりました。
私はきっと、当初、良い甘えをしようとしていました。
(ここでの良い甘えとは、情緒的な要求、状況をよくしていくための要求のことです)
親に助けを求めました。
けれど、私は親の無理解の言葉にどんどんと傷ついていくことになりました。
そして、ひきこもり続けたことで、心の傷は大きくなっていきました。
私は苦しんでいて、けれど当時、その苦しみに共感してくれる人も、どうすればいいのかを教えてくれる人もいませんでした。
私は他人の心を信じること、頼ることができなくなっていました。
良い甘えができなくなりました。
その結果、私は希望を持てなくなりました。
うまく言葉にできないのですが、心が死んでいきました。
状況を良くしていこうという気持ちや、人と交流をしたいという気持ちがなくなっていきました。
そして、悪い甘えをするようになっていました。
親に求めるのは、生活費と生活場所の提供のみ。
物質的な要求だけをするようになり、人間としての関わりをしなくなりました。
ヒトとしての関係ではなく、モノとしての関係になりました。
状況を良くしたいという気持ちはなく、挫けて、弱くて、諦めて、怠けました。
心は虚しく寂しく、苦痛ばかりを感じるようになっていきました。
悪い甘えは、人の気持ちを鈍感にするくせに、苦痛をもたらし、臆病にもします。
悪影響を及ぼしてきます。
ひきこもっていた頃の私は、もはや甘えていたというよりも、他人の無理解、希望との断絶、自分の人生の毎日に怯えていただけでした。
きっと、ひきこもりニートの人には心の傷ゆえに、「甘え」ているというよりも「怯え」ているといった精神状態の人もいるのではないでしょうか。
悪い甘えはいずれ怯えになります。
ひきこもりニートは良い甘えをしよう
そんな私も、ひきこもりニートをなんとなく抜け出して、日本の社会に出て働くようになりました。
そして、社会で知ったことがあります。
- 社会で働いている人たちでも、しっかりしている人ばかりじゃない
- たまにすごく良い人や優しい人がいる
つまり、社会には甘えて生きている人もいるし、甘えさせてくれる人もいるということを知りました。
けっこう、衝撃的に感じたことを覚えています。
しっかりできなくて、失敗してもいいだなと思いました。
親や家族じゃなくても、甘えていいんだなと思いました。
それからは、どうせ自分は甘えた人間ならば、甘えて生きていこうと意識して生きるようになりました。
甘え方は下手くそですが、下手なりに甘えられる機会があれば全力で甘えてます。
当時は「悪い甘え」とか「良い甘え」とか明確に意識していたわけではありませんが、人に頼るときは「良い甘え」をするように自然と心掛けて甘えていたと思います。
私は甘えて生きてます。
社会に出て、出会った人たちに色々と助けてもらいながら、なんとか生きてます。
たくさんの人に良い甘えをするようにしたら、多少は生きやすく感じられるようになったかなと感じています。
改めて問いたいです。
あなたは、ちゃんと甘えられていますか?
ひきこもりニートは甘える相手を考えた方がよい【反論も反抗も無駄です】
ほとんどのひきこもりニートが甘える相手は、親(や家族)ということになるのでしょう。
親に良く甘えらていますか?
親は良い甘えに応えてくれていますか?
親はひきこもりニートを救える人ですか?
ひきこもりニートに対して「甘え」や「怠け」と言い放つしかできない人ではありませんか?
できない人間に対して、できないことを責め立てることしかできない人間ではないですか?
キレイな正論を言うことはできるけど、解決策は言えない人間ではないですか?
あなたに生きやすい方法を具体的に示せる情報を持っていたり、方法を組み立てられる人ですか?
あなたに生きる勇気を与えらえる人ですか?
ひきこもりニートに対して「甘え」や「怠け」と言い放つしかできないという人は、人を導くだけの力がない人なのです。
たかがひきこもりニート1人の気持ちにだって寄り添えないし、立ち直らせることができない人なのです。
ひきこもりニートの情緒的な要求に応えるだけの器量もないし、手助けできるだけの力量もないのです。
きっと、毎日の仕事などの自分の営みだけで手一杯で、誰かを救うだけの余裕も力もない人なのです。
「甘えているだけだろ。もっとやれ」って感じのアドバイスは、甘えているのはわかっているけれど、それでも苦しい、動けない、誰か気持ちを理解して、救ってくれと思っている人に対しては、有毒なだけで、有効ではないわけですが……
それすらもわからないレベルの人に、一体なにを求めればいいのでしょうか?
そんな人間に対して甘えようとしたって、無理ですよ。
その先に、幸せな結果は、残念ながらないと思います。
こういったひきこもりニートの気持ちに寄り添えない人に期待するのは無駄です。
気持ちを伝えたくて、反論したり反抗したりしても、きっと伝わらないでしょう。
時間の無駄でしかないです。
自分も相手も破綻するだけです。
一度、自分の想いを全部ぶちまけてみるのはいいと思います。
けれど、それで何も伝わらなかったら、きちんと相手に失望しましょう。
自分が完璧な人間ではないように、相手も完璧な人間ではないです。
子供からすると、親はすごい人間や助けてくれる人間に見えるかもしれませんが、親もただの不完全な一人の人間であり、限界があります。
仕方のないことです。
自分の身近な人間が、必ずしも自分を助けてくれる人間だとは限らないのです。
だから、甘える相手を変えましょう。 ひきこもりニートを救うことができる人に甘えるべきです。
ひょっとしたら、今までの人生で自分によくしてくれる人がいなかったとか、自分を理解してくれる人がいなかったとか、思う人もいるかもしれません。(過去の私はそうです)
家にいる限り、その感覚は変わることがないと思います。
けれど、社会に出てみて、自分を助けてくれる人がいないか探してみれば、出会える……かもしれません。
自分を助けてくれる人に出会えないと決めつけるのは、社会をなめすぎというものです。
自分の「家庭」や自分の「過去の体験」という資産よりも、「日本社会」という資産はずっとずっと大きなものです。
ひきこもりニートを救ってくれる優しい人の一人や二人はいます。
ひきこもりニートを感動させてくれる人くらいいます。
(年間で数千人の人間と話すような仕事に就いている人は話が上手だし、
年間で数百冊の本を読むような仕事に就いている人は考えが広いものです。たぶん)
ひきこもりニートが甘えまくったところで、日本社会は壊れるような脆弱なものではないです。
あなたが話していて、面白いと感じる人、参考になると感じる人、癒しとなる人、励ましとなる人。
ネット上でもリアルでもいいから、あなたが甘えるべきはそういう人です。
ぜひ甘えていきましょう。
ひきこもりニートでも、幸せで楽しく甘えた人生を送ればいい
ひきこもりニートを長期でやってしまうと、生きることに引け目を感じてしまうし、人に対して臆病になるし、幸せに対しても鈍感で臆病にもなると思います。
私は自分のことを心底からダメ人間だと思っていますので、更生して良い人間になることは諦めてしまった人間です。
正しい人間になることも諦めました。
強い人間になることも諦めました。
(お世話になった人に対しては真摯に恩返しをしたいと思うくらいの真心は備えている人間でありたいとは思ってはいますが……)
だから、甘えた人間でいいやと考えて生きています。
社会をなめた考えで生きているなと思っています。
けれど、社会をなめると、苦いだけでなく甘い味わいもくれるなと感じています。
常に笑顔のたえない幸せで楽しい人生を送っています。
(嘘です。かなり言い過ぎました。ギリギリの人生をつまらなく送っています)
ひきこもりニートで苦しんでいるという人は、自分なりの甘えを考えてみればいいんじゃないのかなと思います。
世間の意見とか周りの人の意見とか、わりと役に立たないというか信用できないことも多いですから。
私の意見もそうです。
というよりも。
ひきこもりニートの経験者は社会全体から見ればかなり少数派です。
そして、ひきこもりニートと言っても人によって状況はバラバラです。
だから、誰かの意見を、そのまま100%自分の意見にしようとすると上手くいかないことが起こります。
(それでも、参考になる意見はたくさんあります)
ぜひ自分なりの甘えを考えてみてください。
- 良い甘えをしよう
- 甘える相手は考えよう
甘えの形は人それぞれです。
眠たくなる精神論よりも、一歩踏み込んで、具体的な行動に移せる方法論について、自分なりに考えてみるのがオススメです。
ではでは。
ひきこもりニートにも幸あれ。
脱出経験については、いつかもう少ししっかり書きたいと思っている記事。
外に出たい。ひきこもりニートからの脱出方法とは、簡単な環境から始めることに尽きる
「無知」「幼い」と言われたら、幼さを克服するのではなく、幼いままで生きる方法を考えるのがダメ人間っぽく、甘えた考えだなと自分で思う記事。ラクな生き方でいいや。
ひきこもりニートの顔と言動が幼い理由【生き方の特徴】